咬耗を臨床に見る
Some clinical reflections bon dynamics of attrition
歯界展望 第62巻 第4号 別冊 昭和58年10月15日発行(1983)
はじめに
『日本人の平均寿命は、男子77.22歳、女子79,66歳になりどちらも史上最長記録を更新した。厚生省統計情報部が2日まとめた「昭和57年簡易生命表」によると、昭和57年の男の平均寿命は前年に比べ0.43歳、女は0.53歳延び,女は80歳にあと一歩と迫った……』と7月3日の新聞紙上に発表された。
だが、「その歳で,みんな健康でなければ」と、まず思う。
われわれはそうあるように、務めを預けられている。
さて、われわれが受け持つ歯口顎は、どのような姿であれば健康なのだろうか。【事例1:74歳男性 昭和56年の記録 図1】
この74歳の男性は、欠損歯は左上の1歯のみで、残存歯や咀嚼効果に対する影響も少なく、齲蝕などのために修復された歯牙の機能は十分回復されているし、歯肉をはじめ歯周組織には進行性の病的変化はほとんどみられない。
「食べ物には好き嫌いはない」と言われるが、よく聞いてみると硬いもの好きで、「よく噛む」といわれる。ブラッシングなどの口腔衛生に対する態度も確実で、生活のなかに定着している。しかし、歯冠の有様はなんとしても異様で、まず解剖学的形態とはひどく違っていて、色合いも黄色く、透明度も強い。それは高度な摩耗の結果できあがった高齢の歯であるが、決してその機能に衰えや障害があるわけではなく、毛筋1本でも噛み切れるし、硬い食べ物こそ望ましいという。もちろん本人は、現在歯に対する不満も不安もなく、自信と誇りをもっている。まさに丈夫な歯であり、健康な口腔といえると思う。
このような歯、高度な咬粍はいつごろから始まったのか。どのように進行し、機能障害は現われないのかなどについて、臨床で知り得たことをまとめてみよう。1. 加齢と咬耗の進展
1)咬耗とは
「咬交によってエナメル質および象牙質の一部が消耗することである。咬合機能を営んでいる人では、萌出後時間の経過とともに咬耗が進んでゆき、老年では萌出当時の歯冠の解剖学的形態は失われていることが多い。このように生理的に起こるものを生理的咬耗といっている」(石川,秋吉,口腔病理学l)とある。
一般に組織臓器は、機能を果たしながら老廃し再生するが、歯牙は再生されず消耗が累加して変形として残る。そのために機能が障害されないように、再生の代償的変化が(発育とも思われるように)続いて起きる。
事例1としてあげた男性の場合、機能に衰えや障害がなく、咬耗が顕著にみられる。しかしはたして機能にわずかの衰えすらもないのかどうかは確かめられない。かりにこの人の20歳代にも、ある程度の咬耗はすでにあったはずで、咬耗を現わした20歳代の時点での機能は、咬耗のいっさいみられない萌出時の咀嚼機能と比較して衰えているとは考えられない。だから咬耗は、身体の機能の衰えとして現われ、避けられぬ死に導く生理的変化、すなわち老化ということはできない。
どの程度に進んだ咬粍をもつときに、どの程度であったときと比較して、どの程度機能が衰弱するかは極められてはいない。
高齢者には著明にみられるが、老人特有のものではなく、乳歯にもみられる、この咬耗はどのように現われ、どのように進み、どのように口腔の健康にかかわるのか、また咬粍と歯牙諸疾患の発症とのかかわり、治療および補綴修復処置との関係などについても、ほとんど研究が行われていないように思われる。2)咬耗の進展
【事例2:経年変化 6歳8ヶ月〜15歳8ヶ月 女性 昭和26〜35年記録 図2〜10】図2
図3 6.8歳と9.8歳 図5 12.8歳と15.8歳
図4 6.8歳と9.8歳 図6 12.8歳と15.8歳図9 12.8歳 図10 15.8歳
筆者が学校保健に関与、挺身していた昭和26年から10年間、モデル地区の保育機関の幼児、小学校児童の歯口顎顔面の発育と保健運動の効果、その推移等々を観察する諸記録のなかのおもな1つとして、毎年誕生月の2ヵ月後とそれから半年後の月に、アルギン醸印象剤を用いて歯型を作製、この記録について成長を追跡調査していた。その162名のなかから歯列、咬合状態の正常と思われる1例を取り上げ、6歳8ヵ月から15歳8ヵ月までの咬合状態、なかでも最も早く萌出し、咀哨機能とその効果に強力にかかわるとされる第1大臼歯の咬頭頂を追跡してみると、時間の経過とともに進展がみられる。
保存されているこの児童の顔面その他身体的な測計値からも、特記すべき嗜好、習癖、病歴もないので、普通の発育と判断してよく、したがって歯牙石灰化の異常は考えられない。
咬耗は萌出直後に咬合が成立したときからみられ、再生機能のない組織であるため加齢に従って累積強化され、高齢者では異常にさえ思われる咬合面形態となる。しかし再生を代行するような近接諸組織の変化によって、その機能は十分捕われ,障害を残さない。乳歯の咬耗
乳歯列をみても交換時期ともなればどの歯牙も咬耗が著明に現われて、その程度の差によって永久歯列を受容する顎の発育を忖度できるように思われるほどである。
交換時期にみられる乳歯の咬耗は、70歳を過ぎる高齢者に残る咬耗とともに、それによって樹冠の形態を、ヒトの歯の形態からその人間を現わす。まさに完成した個人的身体形態を示す1つであって、咬耗はその人にとってよりよい機能を果たすために役立ち、役立ったことの成績表とも、記念碑とも考えるべきものと思う。
3)同年齢層の咬耗状態の差異(食生活の変化による咬耗度の差)
「古代人に比べ現代人では一般に咬耗は軽度であり、特殊な習慣や嗜好の風習などによっても咬耗は強く現われる」(前出,口腔病理学)とされているが、特別な嗜好、風習、習慣の違いをもたない同一社会にあっても、わずか10年間の時間的間題間隔のなかでも、社会状況の急変が食事事情を急変させたならば、その影響は重大と考えるべきではなかろうか。【事例3:14歳2ヶ月 女性 昭和34年記録 図11〜13】
図11 図12 図13
【事例4:14歳5ヶ月 女性 昭和44年記録 図14〜16】
図14 図15 図16
事例3は昭和20年生まれの14歳2ヵ月、事例4は昭和30年生まれの14歳5ヵ月の同性の2人で、ともに健康でほぼ同年齢であり正常な歯列であるが、咬耗の違いは著明である。この理由は歯牙石灰化の良否によって由来したものと考えるよりも、食生活の違いとみるべきではなかろうか。それも個人的嗜好、家族の食習慣によるとみるよりも、生まれ育った時代の差がわずか10年であっても、この10年間の急激な食糧事情の変化、すなわち社会的食品産業の進展による急激な軟化加工食品の一般化は、噛む必要のない味つけ食品の日常化であって、異なる時代に生まれ育った2人の歯牙の咬耗に与える影響は重大であると考えなければならない。ちなみに1人は終戦の年に生まれ、その後14年間を経て、他の1人が3歳であった昭和33年はインスタント・ラーメンの大ヒットの年、11歳の昭和41年では30億食にもなった。そのような食事情のなかで育った14歳のときの状態である。
【事例5:33〜40歳 男性 昭和35年 42年 図17〜22】
図17 33歳 図18 40歳 図19 40歳
図20 40歳 図21 40歳 図22 40歳
事例5は工場検診の記録のなかから30歳代の1人、また事例6として同じく30幾代の女性を取り上げ、条件としては歯列が比較的正常で、罹患歯が少なく軽度なものとして、両者ともに咬耗は各歯に明瞭に認められる。
30歳代の咬耗としてこの程度が生理的で正常なものと考えられるのか、あるいはなんらかの理由により異常に咬耗しているとみるかは、疫学的調査によらなければならないが、生来頑健に育ち正常歯列をもち、歯疾あるいは歯周疾患による咀嚼咬合時の苦痛の経験をもたない、いわゆる歯の丈夫な人で、なお特異な食物習慣、嗜好が見い出せない場合は正常な咬合咀嚼による咬耗とみるべきであろう。つまりわずかの程度の差はあったとしても、ともに生理的な加齢変化であって、機能に衰弱は認められない。2. 隣接触面の咬耗
咬合面の咬耗とは別に隣接触面に咬合により起こる磨耗、すなわち咬耗があることは、抜去された多くの歯牙の観察結果から認められている。
正常な歯列をもち、ムシ歯のない場合の隣接触面の磨耗は、40歳代になると第3大臼歯から第3大臼歯までの距離を10mm縮小させるといわれる(ポッセルト、Physiology of Occlusion and Rehabilitation,2nd.ed.)。【事例6:35歳〜47歳 女性 昭和43〜55年記録 図23〜28】
図23 35歳と46歳
図24 35歳と46歳
図25 35歳 図26 46歳
図27
図27
図28 47歳の口腔状態
【事例7:85歳 男性 昭和52年 図29】
図29 85歳の口腔内とX線写真
事例6についてみれば、35歳から46歳までの10年余で、上顎の歯列弓8〜8の実長はFlower氏の測計法によれば差が出ないが、上顎犬歯近心より第3大臼歯遠心間のノギスでの実測長は左右とも0.5㎜減少している。前歯部2〜2は焼きなました0.4㎜径の銅線を唇面切端部に密着させた測計値では差がなかったということは、上顎2〜2が唇側に移動していることを示す。
8〜33〜8はともに0.5㎜減少し、右下3の近心から左下3の近心まで1㎜の減少を示す。この値は隣接触面の磨耗だけによる減少値ではなく、1|1の切縁の近心端(正中位)の舌側移動も影響しているとみなければならないと思う。被蓋度は左下1で計測すれば、咬粍しているにもかかわらず、1㎜深くなっている。
下顎前歯の切縁の咬耗につれ、隣接触点の咬耗は、上顎のそれとともに、唇圧による舌偏転位によって接触点は保たれるが、下顎前歯の隣接触点は切縁端に近接しているので、切縁の咬耗が極端に進むと接触点を越える事例7のような場合も、舌側傾斜によって接触が回復するか、歯間離開の状態となる。
歯周組織の病変のある場合などは、そのために骨植が弱化して咬耗が起こらず、前歯歯列の過蓋や不整(離間など)が進み、また下顎の離開あるいは捻転移動をしばしば見受ける。
3. 歯列不正と咬耗
【事例8:43〜53歳 男性 昭和46〜56年 図30〜39】図30 43歳 図31 49歳 図32 53歳
図33 43歳 図34 49歳 図35 53歳
図36 43歳 図37 49歳 図38 53歳 図39 53歳
【事例9:54〜66歳 男性 昭和45〜56年 図40〜46】
図40 54歳 図41 66歳 図42 54歳(拡大) 図43 66歳(拡大)
【事例9:54〜66歳 男性 昭和45〜56年 図40〜46】
図44 66歳 図45 66歳 図46 66歳
「咬合状態に異常のあるときには、特有な形の咬耗がみられるものであって、切縁咬合では(事7のように…著者挿入)切縁および咬合面に水平に咬耗が起こるし、交差咬合では上下の歯列の交差する部位の歯に咬耗が強く起こる。さらに過蓋咬合では上顎前歯の口蓋面および下顎前歯の唇面に強い咬耗が生じる」(前出,口腔病理学)とされている。
事例8は前歯部の位置異常、事例9は臼歯部の位置異常の例で、歯列が異常で咬合異常のときも、歯周組織に異常がなく正常一般的な咀嚼機能を営む歯は咬合面と同様、側面の咬耗が起きる。両者ともかつて10年以上も前に歯列不正部、正常部ともに歯周組織病変を加療し、完全寛解(complete remission)したのち、病因を除去する生活を保つことにより、再燃再発することなく健康を維持している。ともに10年間の観察結果は、異常な面での咬耗が進展することのほかは、位置異常であれば、歯軸に対して側方から咀嚼咬合圧がかかるために、必ず起きるとされる咬合性外傷の症候はない。
歯周組織の炎症性病因除去の生活を保つことが出来れば、歯列不正による異常咬合圧そのことが歯周組織の病変を起こす原因とはならない。したがって歯周組織疾患の予防、治療に位置異常の調整が不可欠な先決条件とする意見には同意しがたい。
4. 異なる咬耗
【事例10:図47〜53】図50 43歳 図52 41歳の口腔
図53 43歳と49歳
事例6と同時代の同性、ほぼ同年齢の2人であるが、両者の咬耗状態は著しく異なる。
この事例10は一見正常歯列とみられるが、舌側咬頭の接触が不十分、つまり上下歯牙とも舌側傾斜していることにより、上下頬側咬頭だけの咬合であり、嵌合は深く緊密で,咬耗はその部位にだけわずかにみられる。
1)咬耗と骨格
「咬耗を起こしている歯は、一般に骨植がよいことが多い」(前出,口腔病理学)とされているが、咬耗は咬合すればどこにもある程度は起こるもので、咬耗を起こしているからといって必ずしも骨植がよいとは限らない。同様な歯列であっても病歴をもち、十分な咀嚼咬合の行われていない場合などの咬耗の少ない場合は骨植は比較的弱いと思われる。このことは咬耗が少なく、咬頭嵌合の深い場合には歯肉、歯周組織の炎症が引き起こすわずかの歯牙の位置移動であっても鋭敏強力に咬頭干渉を起こし、炎症組織に与える影響は強く悪化重症となる。したがって、咬粍の少ない深い嵌合状態の歯列は、日常の保健管理がより重要であると思われる。2)異常に強い咬耗
【事例11:30歳 女性 昭和44年 図54〜55】図54 図55
上顎前歯口蓋面に強度に異常な咬耗がみられる、異常嗜癖によるものか、あるいはBargenとAustin、Thomaの報告(前出,口腔病理学)のような習慣性嘔吐によるものか、また酸度の強い食物の常食によるものか種々調査したが該当するものはなく、両親および家族にも特に異常はないとのことで原因不明であった。
【事例12:45〜51歳 男性 昭和48〜54年 図56〜60】
図54 図55
上顎前歯口蓋面に強度に異常な咬耗がみられる、異常嗜癖によるものか、あるいはBargenとAustin、Thomaの報告(前出,口腔病理学)のような習慣性嘔吐によるものか、また酸度の強い食物の常食によるものか種々調査したが該当するものはなく、両親および家族にも特に異常はないとのことで原因不明であった。
【事例12:45〜51歳 男性 昭和48〜54年 図56〜60】
図56 45歳 図57 図58 上段:52歳
下段左:49歳
下段右:51歳
図59 51歳 図60 51歳 アマルガム充填後
事例8と同一人で、確たる原因を掴めないまま10年近く臼歯の咬耗を観察していたが、咀嚼、特に不快を覚えるようになり、また部分破折のおそれも強くなったので、歯牙にいっさいの侵襲を避け、保護できる方法として一部にアマルガム充填を行った。
前歯部歯周組織の咀嚼圧の負担過重による咬合性外傷の発症、進行は、10年間の観察によれば事例写真のように杞憂であった。【事例13 :図61〜80】
図61 49歳 図62 53歳修復前 図63 55歳修復後
図64 53歳修復前 図65 55歳修復後 図66 修復後
図67 53歳修復前 図68 55歳修復後
図67 53歳修復前 図68 55歳修復後
図69 53歳 咬耗状態 図70 修復後 図71 修復後
図72 49歳 咬耗状態 図73 修復後 図74 修復後
図75 修復前 図76 修復前 図77 修復前
図78 修復後5年 図79 修復後5年 図80 修復後5年
上顎前歯部の形態、色択異常の改善処置を求められたが、臼歯部、下顎前歯切縁、上顎前歯舌面に強い咬耗がある。問診により、食いしばり、歯ぎしりの習癖はなく、ただ噛みしめ味わう食品と強い酢の物の副食が頻繁である点とが知れたが、それがこの咬粍の原因なのか、またこの程度は異常であるのか、また今後どのような速度でどのようにまで進むのかについては断定できなかった。臼歯部の咬耗に前歯部の咬耗が伴わず、咀嚼時に下顎前歯の突き上げが次第に強くなり、また臼歯部咬合面で不快を感じるときが多くなってきたので、10年余の経過観察ののち、臼歯部の咬合挙上と咬合面の修復を行い、そののち前歯部の修復を完了した。
5. 修復歯の加齢と咬耗
生体は加齢により(成長,発育を含め)必ず変化する。健全な咀嚼機能が加齢的に歯牙、歯列に及ぼす変化は、咬合面・隣接触面の消耗すなわち咬耗である。歯冠修復に際してはその時点での残存歯の咬耗の状態とその後の進展に同調できる修復材料を選定すべきである。
事例13のように、修復金属の(咬合による)消耗が歯牙の咬耗に同調できない場合、保護に役立つよりもかえって破壊の原因になる危険性がある。
咬耗が重度におよび、咀嚼に障害を及ぼし、または歯牙の破壊につながる場合、どの程度に修復するか、どの程度咬合を挙上回復するかは同年齢層の正常と思われる咬粍を参考にし、その人の適応力を十分確かめたのち、程度は決められなければならないと思うし、また修復材料についても、長年月にわたる咬耗歯での咀嚼に調和した周囲諸組織の反応を考慮し、硬度、磨耗度についての考慮が必要と思われる(硬すぎる材料は咀嚼時,不快感を与え,必然的にその部では噛まなくなる)。
咬耗のある歯列の歯冠修復は、以上の点を考慮し咬合の挙上、歯冠の修復形態、材料の選択に配慮を必要とするものと思う。
これらについてはいまだ十分な研究がなされていないが、高齢化社会にある歯科医学の重要な課題と考えられる。
6. 食生活と咬耗
前出の『口腔病理学』にも「食物,食習慣によって咬耗のひどくなることがある」との記述があるが、食習慣は食文化に定着する。食文化は生活場所の気候風土に強くかかわる。しかし文明社会においては、その社会の経済状況からの食糧事情に強く左右され変化する。
咬耗を考えるとき、わが国の最近の急激な変化は重要な問題点として取り上げられなければならない。しかし残念ながら詳細に述べる誌面を与えられていないので、ただ図81のエスキモーのように、女性は皮をなめすために、また重要な食料源の魚の保存乾燥時に、舞い散る砂粒がつり下げた魚の表面にくい込み、それを男女とも食することによって異常に咬耗は起きていたが、近時そのような多くの民族の食文化が文明の波に洗われ、急速に大きく変化した結果、歯牙歯列のみでなく身体各部に現われる衰退の有様は、人類の危機的様相を現わすことを世界各地の広汎克明な調査と実験によって示した警世の書,W.A.プライスの『Nutrition and Physical Degeneration―A Comparison of Primitive and Modern Diets and Their Effects』(食生活と身体の退化―未開人の食事と近代食・その影響の比較研究*―)540頁を全訳自費出版しているので紹介し論述に代えるが、事例4のようにわが国の食生活の急激な変化は、歯牙咬耗の変化だけでなく身体各部に現われ,また精神的な影響さえも問題となっている。
われわれ歯科臨床の日常のなかで,その時点で快適に過ごせる回復治療だけでなく、健康をも回復し、維持できる食生活、特に咀嚼についてわが国古来の食文化を見直し、健全な食生活に戻すこと、そのことこそが口腔諸疾患の根本的病因除去であり、従来の対症療法だけの欠陥医療より脱却し、病因除去の成功によってはじめて十全な治療につながることを銘記すべきであろう。図81 図82
むすび
咀嚼咬合により、加齢とともに歯牙咬合面と隣接触面は磨耗して咬耗を起こし、その進行の結果次第に歯冠長は短く、歯間空隙は狭くなってゆく。
身体諸組織は機能を営みながら老廃し再生するが、歯牙は再生されることなく消耗が累加し咬耗として残る。しかしそのために機能が障害されないように代償的近隣諸組織の変化によって調整される。
この点について、ポッセルト(Physiology of Occulusion and Rehabiltation)を参考にしてまとめてみると図82のシェーマのように典型的な反応は、まず歯髄の変化であろう。
咬耗の進展とともに髄角は退縮するし、根管は細く、あるときは細分する(小野寅之助著,根管(歯髄腔)の解剖図鑑)。
咬合による咬合面の咬耗に加え、隣接面が磨耗する結果、接触点は接触面となり、接触面周辺が広がる結果、歯間空隙は次第に狭くなり、そのままでは歯間乳頭組織は圧迫される。乳頭組織の受容を可能にし、歯冠長を維持する歯槽骨頂部組織の後退と同時に、歯槽骨皮質、海綿部の密度は増す。
隣接触面の咬耗は、歯牙隣接触緊張のなかで起こりそれを変化させるが、咬頭の咬耗が可能にする歯牙の移動によって調整され保たれる。
その間、歯槽突起の吸収と歯根への二次セメント質添加などの変化が起こる。そしてデンタル・アーチは絶えず縮少。再構成されてゆくが、そのことは正常な生物学的バランスの過程が常に継続し、保たれていることでもある。
身体諸組織は常に再生し、調整されているように、咀嚼システムにおいても、再生できない歯牙の磨耗を、周囲諸組織の代償的変化によって調整が行われていることを深く理解、認識しなければならない。さまざまに違った年齢の個人において、正常な状態とはなにか、特に咬耗と近接諸組織の健否を判定する場合、この点を十分考慮に入れなければならない。
たとえば20歳の年齢の正常な状態は、45歳の人間における正常な状態とは異なるものであり、20歳の状態は加齢とともに45歳の状態に移行することをわきまえ、修復医療はそれに同調するものでなければならないし、常に咬耗の異常に留意して、周囲組織の健康化を促進する日常生活を処分することを歯科医療のなかに位置づけ、定着させなければならないと思う。